「伝える」と「伝わる」のあいだに。

先日とあるイベントで、「一瞬も一生も美しく」で有名なコピーライターの国井美果さんと、サン・アドのクリエイティブディレクター葛西薫さんの話を聞いて感銘を受けたのである。そのときのトークテーマが「”伝える”と”伝わる”のあいだ」であった。


5分で想いを伝えよう

昨年まで責任者を務めていたチームでは、月に一度、全員参加の総会を開催しており、そこでは売上やトピックス発表、月間MVPの表彰などを行い、最後に「ピッチ5」というフリーテーマのプレゼン大会を実施していた。“5分で想いを伝えよう”をキャッチフレーズに、毎回3名ずつ指名してプレゼンをしてもらい参加者の投票で勝者を決めるというものだ。自分の考えをシンプルにまとめ、それを自分のコトバで多数にアウトプットするというのは、慣れていないと意外と難しく、経験値や練習量がものを言う。みんな嫌がっていたのを知っているし、なんの意味があるんだろうと思っていたかもしれない。ただ考えてみてほしい。一対一のコミュニケーションを含めて、人に何かを「伝える」機会はこれからの社会人生活で多く訪れる。「伝える」ことを追求するという経験には、大きな価値があると僕は思う。


ただし、前提として「伝える」ことと「伝わる」ことには大きな距離が存在している。その距離はどうしたら埋められるのだろう。間に挟まっている障害物はいったい何なのだろう。


ぼくがチームを抜けることが決まった際に、こりゃ言い出しっぺの僕が最後にやって終わらねばなるまい、ということで僕なりの想いをまとめてみたのだった。


そのときのプレゼンのタイトルが、「伝える」と「伝わる」のあいだに。である。


「ピッチ5」という問いに対する僕なりの解を提示したつもりだ。今回そのとき話した内容を改めて文章にまとめてみたいと思う。


ちなみにタイトルはパクリではなく、オマージュであることを強く強調しておきたい。


「伝えたい」の独りよがり


突然ですが、この看板を見て何を思うだろう。

要は、

「日曜日の10時~16時は自転車専用道路になりますよ。」ということ。

要は、

「道幅が狭いから大型車は通らないでね。普通車は対向しづらいから一方通行ですよ、

でも朝夕の混雑時は人通りが多いから地元の人以外は通らないでね。」ということ。

ごめん、もはや解読する気が起きない。

なんか刺されそう。



"表記"と"表現"の違い


お分かりいただけただろうか?


まず第一に“どれだけ表記が丁寧に洗練されているか”

第二に“適切な表現が足されているか”


これらを満たして、ようやく伝わる看板になる。

例にあげた写真はそのわかりやすい失敗例たちである。


さらに日常の中に目を向けてみる。


例えば、メールというのは表記なので表現ができない。

よって、表記すら洗練されていないと伝わらない確率は非常に高くなる。

だからメールを通した勘違いや衝突は生まれやすくなる。


手紙はそこに表現を加えることが出来るという点で、メールよりもニュアンスや思いを“伝える”ことに適している。スピードや手軽さなどは置いておいて、あくまでも伝える側と伝わる側の認識の度合いや正確性の話だ。


メール=表記

手紙=表記+表現


そういう意味では、表記したものを見せながらコトバで表現する“プレゼン”というのも絶好の「伝える」機会であるというのは間違いない。


ちなみに、LINEにおけるスタンプの存在は、メールにおける表現力を格段に増やし、さらにスピードや手軽ささえも他の手段を遥かに凌ぐ。「伝えたい」人と「伝えてほしい」人たちのストレスが軽減される、素晴らしい発明だと思う。


まあ、既読スルーという新たなコミュニケーションストレスが発生した件については、発明の代償だと思ってスルーしておこう。


「伝わる」までのキョリの正体


誰しも仕事上でこんな経験があると思う。


指示内容を伝え、相手は「わかりました」としっかり返事までしているのにいざ蓋をあけてみると相手はずいぶん見当違いな行動をしてあいた。僕もたくさん経験がある。


つまり、「わかりました」と言われても相手は必ずしも自分の指示内容を本当の意味で理解しているとは限らないのではないか。


「伝える」から「伝わる」までの間には


伝える側の説明能力
聞く側の理解力
聞いた側の行動表現力


といった見えない障害が、のっぺりと横たわっているのである。


それぞれの段階で内容を変化、目減りさせないのは意外と難しい作業だ。ましてや、仕事の現場では、伝える側と伝えられる側で随分とスキルや経験といったバックグラウンドが違ってくる。余程伝える側が注意を払わない限り相手に伝わる筈はない。


だからもしそういうことが起きてしまったときは、自分の伝え方の配慮が足りなかったんだ、と僕は最近思うようにしている。


WantedlyのCEO仲暁子さんのとあるインタビュー記事で、このコピーが頭の中に残った。


“私が正しい”から脱皮しよう。


「伝える」ために必要なのはまさにこの姿勢だと、僕は思う。



コトバの魅力に憑りつかれた変態少年


伝えるツールとして、欠かせないのが”コトバ”だ。

僕は小さい頃から“コトバ”が大好きだった。


小学生の頃は小説家になりたくて、自由研究では小説ばかり書いていた。「たかしくんの冒険シリーズ」が割と評判良かった。ドラゴンボールやスラムダンクなどのアニメも好きだったが、毎週はじめに出てくる「ゴクウがやらねば誰がやる!」みたいな副題が気になってしまい、その副題のコピーを毎週ノートに書きためてそれを眺めてニヤニヤしている変態少年だった。きっと親も心配してたと思う。


中学生に入ってギターと出会ってからは、すぐに自作の曲づくりに取り掛かり、毎日たくさんの曲を書いた。当時はじめて作った「一目惚れ」という曲のサビのフレーズは、「一目惚れ 一目惚れ 君と出会ったそのときに 一目惚れ 一目惚れ 忘れられない」だ。皮肉なことに、そのとき一目惚れした子が誰だったのか、まったく思い出せない。


また深夜ラジオのハガキ職人のセンスに憧れて真似したり、放送作家の道も真剣に考えたりした。ナイナイやゆず、福山のオールナイトはもちろん、伊集院光のラジオも毎週聴いてた。もちろん、全くモテなかった。


高校に入ると勉強が難しくなり、数学はまるで苦手だったけど、国語の成績だけはいつも学年トップをとっていた。設問だけでなく、その設問をどういう意図で作ったのかという先生の心理を読み解くのがコツだった。


大学の頃にはコピーライターに憧れて、宣伝会議やコピー本を読みふけりながら、インターネットでブログを書いているときに僕はふと気づいてしまった。


これまでやってきたこと、プロにならなくても全部インターネットでできるじゃん。


そう、もはや誰しもがインターネット上でコトバを使って発信者になることができる。

コトバを使って遠くに住む人ともコミュニケーションがとれる。


そうしてインターネットの可能性に魅了され、今の会社に入社を決意したのだった。


生涯やっていきたいことは「コトバを使って人の心を動かすこと」


これは恐らくぶれないと思っている。

ただコトバそのものは媒介する道具に過ぎず、それを使って色々な表現手段がある。


例えば小説、詩、音楽、漫才、スピーチ、広告もそのひとつだ。


今後も「コトバ」にこだわって「伝える」仕事をしていきながら、

「伝わる」ための方法を追及していきたいと思う。


僕の大好きなコトバのプロたち

コピーライター 糸井重里

詩人 谷川俊太郎

アーティスト 桜井和寿

芸人 バカリズム

落語家 笑福亭鶴瓶

経営者 孫正義

ジャーナリスト 池上彰

政治家 バラク・オバマ


これらの皆さんはすべてコトバの使い方や性質を知っており、自分のものとして使いこなしているいわばコトバのプロたち。コトバを徹底的に洗練して使っているからこそ成功しているし感動するのだと思う。


共通して言えるのは、「シンプルでわかりやすい」ということ。

難解ではないからこそ心にスッと入ってくる。


それくらいコトバのチカラは偉大で、人を感動もさせるし傷つけることも出来る、しいては国を動かすことも出来るのだ。


ではこの中から、ひとつ作品を御覧あれ。


「贈るほどでもない言葉 / バカリズム」


というような内容のプレゼンだった。


皮肉なことに、「伝える」と「伝わる」ことを散々説いておきながら、その内容でさえ恐らく自分の思っている半分以下しか「伝わっていなかった」んじゃないかと思う。


だからこうして今改めて文章にしてみている。

大事なことは何度も繰り返し根気強く伝えていく必要があるのです。


ブログ読んでほしい

ブログ読んでほしい

ブログ読んでほしい。


何かひとつでも、伝わってくれたらこれ幸いです。

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